台湾の事をもっと知りたくて



あなたは知っていましたか?

台湾は昔 日本国であった事を

日本統治時代を過ごした台湾の人は日本人より日本を愛し

日本精神を受け継いでいることを

あなたは知っていましたか?




 

楊 素秋(ヨウソシュウ)さん 著書<日本人はとても素敵だった>

 (昭和7年・台南市生まれ)はこのように言われています

「もしもタイムマシンで元にもう一度戻れるなら日本時代に戻りたいです。

あの平和で穏やかな時代に」 と

 

ユーメイズは思います

私たちは過去の歴史から学ばなければならない責任があると

 


麗しのフォルモサ

  台湾に咲くブーゲンビリアの花
  台湾に咲くブーゲンビリアの花

台湾は与那国島から110キロしか離れていなくて、大阪~姫路間で88キロぐらいなので、晴れていれば肉眼で見える距離です。木の葉型の台湾の面積は九州とほぼ同じで、南北に山脈が縦走し、その山脈は総面積の半分を占めます。台湾最高峰の玉山(旧日本名 新高山)は3,952mで富士山(3,776m)より高く、その他も3,000m級の山が連なっています。耕作地は全体の30%しかありません。2014年の総人口は2,337万人、台湾最大の都市台北は268万人、第二の都市高雄は277万人となっています。人口の内訳は漢民族が98%で原住民が2%です。 

     淡水・福佑宮の壁画
     淡水・福佑宮の壁画

台湾は17世紀に大陸の福建省から移民が来る以前は先住民族だけがすむ美しい島で、ポルトガル船が台湾島の西海岸を船で通った時に船上から見た緑豊な台湾島の美しさに感動して、随行者が「llha Formosa(麗しの島)」と叫んだとされ、台湾のことを「フォルモサ」という別名でも呼ばれたりします

  台南のチーカンロウにある鄭成功の像
  台南のチーカンロウにある鄭成功の像

 1616年には徳川幕府が台湾を占領しようと13隻の船に3千人の兵を乗せて出航しましたが台風にあい失敗に終わっています。この時台風にあわなければ台湾はこの時点で日本になっていたかもしれません。その8年後の1624年にはオランダが台南に要塞を築き占領していき、2年後にはスペインが北部の基隆に進出していきました。このオランダ統治時代は台湾の英雄、鄭成功の出現までの37年間続きます。オランダを台南から追い出した鄭成功は台湾の開発に力を注ぐのですが、鄭成功は38歳で早死し、息子、孫と後を継いでいきますが、清朝に滅ぼされ、わずか23年の短期政権で終わっています。

    關渡宮の壁画
    關渡宮の壁画

それから清朝に統治される時代が212年続きます。が実質的には清朝が統治したのは日本統治の前の20年間だけといわれています。それに清朝は台湾を重要視せず「化外の地」(未発達の地)として放置していたのです。そして この清朝時代に大陸の福建省や広東省などから多くの移民が新天地を求めて台湾に移住しています。

かつて台湾は日本でした

  日本統治時代に建てられた「総統府」
  日本統治時代に建てられた「総統府」

1894年(明治27年)日本と清朝の戦争、日清戦争が始まりました。結果 清朝は日本に敗れ、1895年(明治28年)に台湾は日本に割譲(カツジョウ-国の一部を他国に渡す事)します。ここから台湾の日本統治時代が終戦の1945年(昭和20年)までの50年間続きます。

    日本統治時代の酒蔵跡地
    日本統治時代の酒蔵跡地

日本の初めての植民地に日本政府は一級の人物を台湾総督として送り込みます。

初代の樺山資紀(カバヤマスケノリ)3代の乃木希典(ノギマレスケ)、4代の児玉源太郎(コダマゲンタロウ)などそうそうたる人物が並びます。いかに日本が台湾に力を入れていたかがわかります。日本が台湾に入った当初は台湾住民の抵抗にあい、両者とも多くの犠牲者がでましたが、樺山総督は台湾の基隆に6月に上陸してから11月には台湾全島平定を報告しています。

   日本統治時代の小学校、今は芸術館として再利用
   日本統治時代の小学校、今は芸術館として再利用

 特に4代総督の児玉源太郎とその児玉が日本から呼び寄せた後藤新平の業績は現在の台湾の基礎をつくったと言われ、同じ日本人として誇りに思う次第です。医者でもあった後藤新平は南方特有の病気のマラリアやコレラなどの廃絶のために尽力し、それ以外にも鉄道、港湾、交通網の整備などインフラ整備が後藤の発案によって進んでいったのです。

日本時代の大学教授の家屋「青田七六」
日本時代の大学教授の家屋「青田七六」

それと同時に教育制度の整備も行われ各地に多くの学校ができていきました。

1899年(明治32年)当時の就学率は2%、終戦前の1944年(昭和19年)には92.5%にもなっています。

その他にも新渡戸稲造は台湾糖業に大きく貢献し、八田與一は台南地方で烏山頭ダム工事を完成させ、台南地区の農業に貢献しました。こうして台湾の近代化は優秀な人材と本土からの莫大な資金によって本土以上に進められていったのです。

台湾の悲運

基隆の街で昼寝する老人
基隆の街で昼寝する老人

しかし 平和な日々は長くを続きませんでした。第二次世界大戦です。台湾の人も日本兵としてたくさん出兵されました。台湾原住民により編成した「高砂義勇隊」の志願者募集では、1000人の募集に対し40万以上の志願者があったそうです。日本が台湾に入ってきた時は、原住民の人達との争いもたびたび起こりましたが、このころにはお互い心を通わせる仲になっていたのでしょう。そして 終戦 日本は敗戦国となり台湾は日本国の統治から離れます

     關渡の街にあった昔の民家
     關渡の街にあった昔の民家

台湾には中華民国という名の祖国が入ってきました。大陸から移住した祖先をもつ台湾人としては同じ漢民族です。期待をもって迎え入れようとしますが 台湾に上陸した国民党の兵隊は蔡焜燦(サイコンサン)氏の自著「台湾人と日本精神」より引用させて頂くと、「中国兵達は敗残兵のようで、ある者はぼろぼろの綿入りの服に唐傘を背負ってわらじを履き、またある者は、天秤棒に竹籠を下げ、その籠の中には鍋釜を覗かせている。 

  關渡の街の民家
  關渡の街の民家

そして全員が胸ポケットに歯ブラシをさして、水筒の紐にもホーローカップを引っかけ、醤油で煮詰めたような汚いタオルを腰にぶら下げていた。彼らは軍隊行進にあるまじき乱れた歩調で、その光景は異様としかいいようがなかった。規律正しく襟を正し、人々から喝采を浴びた威風堂々の日本陸軍とは似ても似つかぬていたらくな中華民国軍に我々はただ唖然とするばかりだった」と書かれています。

基隆の商店跡
基隆の商店跡

この時から台湾の悲劇は始まっていたのでしょう。この国民軍の兵隊たちは本性を出し、民家や商家に押し入り、強盗、強姦、窃盗としたい放題を繰り返していくのです。当時の台湾は日本以外のアジアでは最も高い生活水準と教育水準にありました。反対に台湾に上陸した中国兵は水道や自転車など全く知らなかったのです。どう見ても、民度の低い者が民度の高い者を支配することに無理があったのです。また民度の高い台湾人にとっては屈辱以外のなにものでもなかったでしょう  

  中正記念堂の正門
  中正記念堂の正門

そして終戦から2年後の1947年2月、二・二八事件が起こります。台湾全土に広がったこの民衆の暴動は起こるべきして起こった悲しい悲劇です。国民党政権はこの事件を機に、40年の長きに渡り「戒厳令」を公布し、台湾人からすべての自由を奪い取りました。また 政治活動の圧殺の為 罪なき人たちが虐殺され、その数は3万人とも5万人ともいわれています

        基隆の街
        基隆の街

特に日本時代の知識層は特に狙われ、連れ去られそして消息不明になっていいったのです。

前出の蔡焜燦(サイコンサン)氏は自著の「台湾人と日本精神」の中で、「台北市議会議員などは数日前までは酒を酌み交わしていた外省人(終戦後大陸から台湾に来た中国人のことをいう)の憲兵隊長にガソリンをかけられて焼き殺された。基隆港ではキリで手のひらとふくらはぎに穴を開けられ、その穴に太いストロー大の針金を通され、横一列に繋がれた人々が、次々と銃で撃たれて海に落とされていった」と書かれています。

発展する台湾

台北101から見た台北市内
台北101から見た台北市内

この悲惨な状況からアメリカや日本に政治亡命した人もいました。ユーメイズはこのことを考える時、今更ですが、「台湾が終戦後も日本国であったならこんな事にはならなかったのに」と残念でならないのです。蒋介石の恐怖政治は蒋介石が1975年87歳で死去し、その後息子の蒋経国に引き継がれ蒋経国が1988年に病死するまで続きました。その後蒋経国の死に伴い、副総裁の李登輝氏が総統の地位に着きました。台湾人の李登輝氏が総裁になって、台湾は戦後初めて暗黒の時代から抜け出し、急速に発展していったのです。 

     台北市内のガジュマルの木
     台北市内のガジュマルの木

台北市内を歩いていると大きなガジュマルの木によく出会います。精霊が住むという伝説があるガジュマルの木、この木はあの時の悲劇をあの時の人々の涙をじっと見つめてきたんだろうと思ってしまいます。台湾は李政権になった時からだとまだ26年しか経っていないのに、台北の街の発展は凄まじいものがあります

台北101
台北101

今までの押し殺していたエネルギーがいっきに爆発したのでしょう。

そしてこの街を歩くとき、この国のこの街の大きな力を感じます。この国はまだまだ発展していく、そう感じるのです。日本統治時代の建物が多く残り、それが再利用され、観光客や市民の憩いの場となっています。この国に過ぎ去った古きよき日本を感じるのは私だけでしょうか。今度 台湾に行った時ガジュマルの木にいる精霊に聞いてみたいと思います。

中山駅近くのお店
中山駅近くのお店

多くの悲しみや苦しみを乗り越えて今がある台湾の人々、なのに台湾の人は恨み言を言わず底抜けに明るく親切です。そして世界で一番の親日国で、日本を第二の祖国と思ってくれているのです。私にはわかります。神様はきっとそんな台湾を守ってくださいます。絶対に!グシュン

歴史ページの締めくくりとして

楊 素秋(ヨウソシュウ)さんの著書(<日本人はとても素敵だった>巻末「シリーズ刊行にあたって」)より紹介させてくだい

 

タイのククリット・プラモード元首相が、一九五五年に元タイ駐屯軍司令官であった中村明人氏に語った言葉を紹介し擱筆します。

「日本のお陰でアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは難産して母体を損なった。しかし、生まれた子はすくすく育っている。今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるか。それは身を殺して仁を成した日本というお母さんがあったためである。十二月八日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心された日である。更に八月十五日は、我々の大切なお母さんが、病の床に伏した日である。我々はこの二つの日を忘れてはならない」

平成十五年十一月九日