ニ・ニ八事件

 ニ・ニ八事件とは1947年 終戦の2年後の2月27日に起こった事件が発端になって民衆の暴動が起きた日が翌日の2月28日。この民衆の暴動をニ・ニ八事件といったのです。

この事件のあらましをお話する前に、日本が第二次世界大戦に負けた1945年8月からニ・ニ八事件が起きるまでの1年と6ヶ月の間に台湾でなにが起こっていたのかをまずお話したいと思います。

日本が8月15日に降伏してからも、国民党軍が進駐してくるまでの台湾は法秩序が守られ人々は平穏な日々をおくっていました。その国民党軍が台湾入りしたのが同年10月

その行状はダラダラと歩きみすぼらしく不潔で無秩序、その兵隊が歩く両側に日本兵が規律正しく並んで敬礼していました。台湾の人はこの兵隊のパレードを旗を振って迎えていたのです。遅れて共産党との内戦に敗北した蒋介石が台湾に逃亡してきたのは1949年12月、その時には蒋介石と共に将校が60万人、200万人の中国人が大陸から流れ込んできたのです。1945年8月時の台湾の人口は630万人ですから、いかに多くの中国人が台湾に押し寄せてきたかがわかります。蒋介石が1949年12月に台湾入りするまでは、蒋介石の戦友の陳儀が行政長官として台湾に入っています。

当時 台北にはアメリカ領事館があり、ニ・ニ八事件後に領事館に台湾人から「台湾をアメリカの統治下におくか、日本の施政下に戻してほしい」という嘆願書が届いていたのです。

この報告書はワシントンに届きアメリカに依存していた蒋介石はしかたなく陳儀を更迭します。この陳儀、台湾を出るときは日本時代の総督官邸から家具や骨董品を洗いざらし持ち去り、公邸に後任者が来たときは空っぽになっていました。

陳儀は後に蒋介石によって台湾に連行され死刑になり、処刑日には島民にお祝いの花火が配られました。すこし話がそれましたので、戻します。大陸から秩序なき国民軍が入ってきてから台湾は日本統治時代とはうってかわって汚職・不正がはびこり道徳は乱れていくのです。また台湾人を北京語のできない二等国民として扱い、原住民と婚姻を繰り返してきた台湾人の顔は中国人とは違う為、見下したのでした。大陸から来た中国人は台湾人の財産を没収し、仕事も奪っていきました。当然 台湾は急激に不況の波が押し寄せ、生活の糧を失った本省人(台湾人のこと)に職業選択の余地はなく、露天をはじめ考えつくあらゆる仕事にむらがったのです。そんな最中に起きたのがニ・ニ八事件です。

 

1947年2月27日(木曜日)、現在の台北市延平北路(迪化街)、天馬茶房付近をタバコ専売局の闇タバコ摘発隊が摘発中、生活に困窮した婦人が2人の幼児を連れて露店で闇タバコを売っていたところ逃げ遅れ、闇タバコと売上金を没収されます。婦人は売上金だけでも返してほしいと懇願しますが、役人は聞く耳持たず、逆に銃でこの婦人の頭部を叩きつけ、婦人は頭部から血を流しその場に倒れました。この一部終始を見ていた通行人たちはこの役人を取り囲み非難し始めたのです。そして普段から外省人(第二次世界大戦後に台湾にきた中国人のこと)の横暴や差別に腹をすえかねていた民衆が集まり始めたのです。

この現状に恐れをなした役人の一人が、こともあろうに丸腰の民衆に発砲し、一人の若い命が奪われたのでした。これで集まった群衆の怒りは爆発しました。

群衆は役人を追いかけ、役人は警察に逃げ込みました。群衆は発砲した役人の引渡しを

 求めますが拒否されます。しかし群衆はその場を離れませんでした。

この事件の噂は一夜にして台湾全島を駆け巡り、これまで外省人の非道横暴に我慢してきた本省人はついに立ち上がったのでした。

翌28日、昨日の何倍もの群衆が専売局に押しかけ抗議行動が展開され、そして28日午後、さらに膨れ上がった群衆は旧総督府前の広場に集まり、シュプレヒコールを挙げました。ニ・ニ八事件の幕開けです。

民衆は放送局(現在のニ・ニ八記念館・旧台北NHK支局)を占拠し、台湾全土に向けて非常事態を流しました。ラジオからは「元○○飛行隊の者は○○に結集せよ」「もと海南島○○部隊出身者は○○時に、台北市の○○はすみやかに集合せよ」と日本語で呼集がかかり、民衆を鼓舞するために軍艦マーチや君が代行進曲が流されたこともありました。さらに民衆の間には「基隆に日本から援軍が上陸したらしいぞ」という噂も流されたそうです。

2月28日夜、陳儀は台湾全島に「厳戒令」を公布します。台北を巡回する国民党軍の兵士は、車上から市民に向けて無差別に発砲を繰り返していました。当初4万8千人いた国民党軍兵士も大陸と内戦をしている国民軍に転用され台湾には1万1千人しか残っていませんでした。陳儀はこの兵士の数では台湾全島民を相手にはできないと考えていたことでしょう。本省人の計らいで事件の5日後の3月4日、島民代表と陳儀の間で話し合いが行われます。

本省人は腐敗官僚の排除・人権の尊重・台湾人の要職への登用など要求を出し、陳儀はこの要求に対しすべて了承しかのように思われました。

しかし陳儀はこの交渉の隙に大陸にいた蒋介石に民衆反乱の報告と援軍要請の電文を送っていたのです。陳儀は自らの悪政が招いた事態を隠すため「共産党の反乱」と事実をねじまげて蒋介石に伝えていました。蒋介石からは「一人の共産党反乱分子を始末すためなら百人の無実の者を誤って殺してもかまわない」と陳儀に命じたのです。

3月7日にはまだ話し合いが行われていました。陳儀の援軍待ちの時間稼ぎでした。

そして3月8日、陳儀の要請を受けた援軍が基隆と高雄に上陸。中国兵はトラックの荷台に備え付けた機関銃を乱射しながら大通りを駆け抜け、台湾人と見ると片っ端から射殺していったのです。 またそれに飽き足らず民家に押し入って略奪、暴行の悪事の限りを尽くし、台湾全土は地獄絵巻図の様相へと変貌していくのです。

素直に陳儀を信用した台湾人はなすすべがなく、悲運を受け入れるしかなかったのです。3月12日には国民党軍の軍用機が全島を飛び、中華民国大統領・蒋介石の名で

「陳儀長官のとった措置を全面支持し」「共産主義者と日本の同調者が騒乱を引き起こした」「台湾の同胞は日本の50年に渡る虐政から開放した、大陸の中国人に感謝すべきである」というビラを撒きました。

1947年3月14日、陳儀は政府主導の台湾人検挙・処刑を断行しました。これには日本教育によって知識、教育、経験を積んだ台湾人知的エリート層の根絶する目的をもっていました。この恐怖政治は1987年の戒厳令解除と1988年の李登輝総統の登場まで続くのです。

 

 参考書  蔡焜燦氏「台湾人と日本精神」・加瀬英明氏「日本と台湾」